南米でアヤワスカを通したトラウマ治療をした話①_体験の流れや注意点
みなさんは「アヤワスカ」という薬を聞いたことがありますか?
これは、南米アマゾンにおいて、古くから宗教儀式やスピリチュアル儀式に使用されてきた幻覚剤のことです。
パーティードラッグとは違い、完全プラントベースの薬で、ペルーなど一部の国では合法です。
「マザーアヤワスカ」と呼ばれており、幻覚体験を通して母なる大地と繋がることで、トラウマやアルコール依存症、うつ病などを治療する目的で使用されています。
今回、メキシコとペルーで2回ずつ、計4回、強烈なアヤワスカ体験をしてきたので、体験レポを共有しようと思います。
▪️興味を持ったきっかけ
英語の勉強のために中学生の時から聞いている「バイリンガルニュース」というポッドキャストで、「アヤワスカ」という南米に伝わる幻覚剤を使用するトリップの話を聞いた時から興味がありました。
会社を辞めて世界一周を始めよう!というタイミングで、ちょうどラインニュースで「忙しい現代人を癒すアヤワスカ儀式が人気」という記事を読み、まさに現代社会に疲れ切ったOLだった私は、「これは何かの導きだ」と想い南米から旅を始めることを決意しました。
この記事では、メキシコとペルーで計4回アヤワスカを体験した私が
・アヤワスカを体験する方法と注意点
・アヤワスカ体験の前準備
・アヤワスカ体験の流れ
をご紹介します。
私が体験したアヤワスカによるトラウマ克服のプロセスについては、こちらの記事で詳しく書いているので、合わせて読んでみてください。
アヤワスカ体験 in Mexico②ー幻覚トリップで家族を失ったトラウマを癒す過程 - 世界をひとり飲み歩く。
▪️アヤワスカを体験する方法と注意点
体験には大きく分けて3種類の方法があります。
①Retreat GURUというWebサイトからアヤワスカリトリートを行っている団体を探す
このWebサイトは、アヤワスカに限らず、リトリート(現実の生活から離れて自然のなかで心身を回復させる期間のこと)の団体を紹介しています。
そのなかでayahuasca retreatと検索をかけると、費用、日程、内容などが記載されたページが表示されるので、自分に合ったリトリートを選んで応募します。
私は1回目の時は、Retreat GURUからIXCAという団体に連絡をして予約を取りました。
②現地のショップから直接予約する
アヤワスカの発祥の地であるペルーには、街中にアヤワスカリトリートをしている場所があります。私は2回目の時はペルーのクスコで、Googleマップでayahuasca と検索をかけ、ヒットしたお店から直接予約を取りました。
③インスタグラムのシャーマンのアカウントに連絡する
非常に現代的なやり方ですが、今はシャーマンもインスタグラムで営業活動をしています。
私は旅先で出会った人の口コミなどで、安全なシャーマンを数人紹介してもらいました。
※アヤワスカは劇薬を使用する儀式です。悲しいことに、セレモニー中に女性に性的な暴力を振るうシャーマンや、量を間違えて死亡事故を起こすシャーマンも存在します。できれば、①②のように利用者のレビューが見られる安全な場所を使用するか、③の場合は複数人のお墨付きがあるシャーマンを選ぶ、または女性のシャーマンを選ぶことをお勧めします。
▪️アヤワスカ体験の前準備
メキシコとペルーで2回ずつ、計4回アヤワスカ体験をしたのですが、儀式の前は以下のような準備が必要です。
・アヤワスカをする目的を決める。
アヤワスカは心の治療を目的とした儀式であるため、あらかじめひとつの「意図」を持っておくとより良い体験ができます。
例えば、「孤独感の原因を知りたい」「自分を愛せるようになりたい」「人とうまく関われるようになりたい」などです。
自分がどのような問題を解決したいのか?を明確にしておくことが大切です。
※
アヤワスカは人の潜在意識にアクセスする強烈な体験なので、そのリスクを冒しても解決したい問題がないという人は、興味本位での体験はオススメしません。
私の周りでは聞きませんが、過去には、パーティードラッグの延長としてアヤワスカ体験をしたことで、トラウマになるような恐ろしい体験をしたり、後遺症が残ったりした人も過去にいたそうです。
・儀式の3〜7日前から、ベジタリアンの食生活をする。
アヤワスカには強力な浄化作用があり、儀式中には嘔吐や下痢が起こります。
赤身肉やコーヒー、チョコレート、セックスなどは「不浄」とされており、身体への負担が大きいため、儀式の前にはこれらを控え、身体を植物性に近づけます。
・ヨガや瞑想を行う。
アヤワスカは神聖な儀式です。
儀式の前に、心と身体をクリアにして、自分が何を求めているのかを明確にしておきます。
▪️アヤワスカ体験の流れ
都市部で行うことができる観光客向けの儀式もありますが、たいていは自然環境の整った場所で儀式が行われます。
私の場合、1回目はメキシコ・カンクンの市街地から車で30分ほどのジャングルの中の施設、2回目はペルー・クスコの市街地から車で1時間ほどの山の中の施設で行いました。
2日間の儀式の場合、たいてい1日目は夜中に、2日目は日中に行われます。
1日目はアヤワスカと繋がり、身体を慣らすため。2日目はより深い体験を行います。
シャーマンから、試験官のようなコップいっぱいの赤黒い液体を渡され、自分の「意図」を頭のなかで唱えながら、ショットのように一気飲みします。
味は焦げた木をドロドロに煮詰めたような、独特の苦味のある味です。(おいしくはないです)
それから各々、ベッドやマットレスの上に横になり、1時間ほど効果が現れるのを待ちます。
効果が現れると、身体が重くなり、強い吐き気を感じて、お腹の中にあるアヤワスカを全て吐き切ります。
その頃から幻覚が見え始めるので、あらかじめ決めておいた「意図」に集中し、マザーアヤワスカに「教えてください」と念じます。
アヤワスカの効果はだいたい5-7時間ほどで治ります。夜のセッションの場合は、18-20時頃からセレモニーが始まり、夜中の2-3時頃には幻覚が収まってそのまま眠りにつきます。
私は計4回のアヤワスカ体験を通じて、10年以上闘ってきたトラウマと随分付き合いやすくなったと感じています。
具体的にどんな体験をしたのか、こちらの記事で書いているので、是非読んでみてください。
アヤワスカ体験 in Mexico②ー幻覚トリップで家族を失ったトラウマを癒す過程 - 世界をひとり飲み歩く。
南米でアヤワスカを通したトラウマ治療をした話②ー私を癒した幻覚体験レポート
4年半勤めた大手企業を辞めて、世界一周を始めた私が真っ先に向かったのは、メキシコのカンクンでした。
もともと「アヤワスカ」のことは知っていたのですが、「何やら幻覚体験で非日常を味わて楽しそう」くらいに考えていました。
しかし、会社を辞めていざ、どこから旅を始めようか、と思った矢先に、LINEニュースでこんな記事が流れてきました。
「現代社会に疲れた人たちに、メキシコの幻覚体験リトリートが人気」
まさに現代社会に疲れ切っていた私は、「これは何かの導きだ!」と想い、メキシコへのフライトとアヤワスカリトリート体験を予約しました。
アヤワスカとは、アマゾンジャングルに伝わる伝統的な薬のこと。
強い幻覚作用や自浄作用があり、古くから宗教儀式や、鬱病、依存症などの治療に使用されてきた、プラントベースの薬です。
アヤワスカの説明や、リトリートの申し込み方などはこちらの記事にまとめているので、合わせて読んでみてください。
南米でアヤワスカを通したトラウマ治療をした話①_体験の流れや注意点 - 世界をひとり飲み歩く。
▪️私の意図と、解消したかったトラウマ
私の意図は « Self love and self confidence »(セルフラブと自信)でした。
私の家は両親仲が悪く、中学生の時は、家に帰れず病気の母とホテルを転々としたり、目の前で母が自殺未遂をしたり、親戚の家に預けられたりと、不安定な家庭環境で思春期を過ごしました。
また、16歳の時に大好きな母が病気で他界しており、母を助けられなかったばかりか心配や迷惑ばかりかけていたことにずっと罪悪感を抱いていました。
毎日のように母親が夢に出てきて、目が覚めて「ママの面倒をみないと!」と焦っては、もう10年も前に他界していることに気づく、という生活をしていました。
その影響で、中学の時から精神的にかなり不安定になることがあり、孤独を過剰に恐れて人の顔色を伺ったり、感情のコントロールができなくなったり、自分や他人を過度に責めたりすることがありました。
これらの問題を解決するために、アヤワスカという手段を選びました。
▪️アヤワスカ体験 Day1 セルフラブの習得
夕方6時頃、施設の庭の一角にある場所で、シャーマンが祈りと大地への感謝を捧げ、試験官のような容器に入った赤黒い液体「アヤワスカ」を参加者全員で回し飲みしました。
薬を飲む時には、"accept with love" (愛とともに受け入れます)と唱えて、自分の意図を頭の中で繰り返しながら一気に飲み干しました。
その後、各自自分の部屋のベッドに移動し、1時間ほど、薬の効果が現れるのを待ちました。
アヤワスカセレモニー当日は絶食する必要があるため、お腹がぺこぺこだった私は、のんきに「たこ焼き食べたいな、餃子も食べたい」なんて考えながらゴロゴロしていました。
すると、突如お腹が内側から擦られているかのような感覚が走り、頭のてっぺんまでアヤワスカの木が焦げたような匂いがこみあげてきました。
私はベッドの横に置いてあった大きなバケツにアヤワスカを吐き戻し、一気に身体が消えて暗い宇宙に投げ出されたかのような感覚に陥りました。
こうして私の人生初のトリップが始まりました。
最初は、黒や白の世界の中でカラフルな地平線や山並み、宇宙のような空間が見えました。
小さな街で急速に季節が移り変わっていくような美しい光景も見えました。
たくさんの虫が蠢いているのも見え、「感情がないもの(人)との交流が怖い」という感情を抱きました。
ひとしきりそんな幻覚が落ち着いたころ、自分の胸のあたりが暖かくなり、自分の中に母の存在を感じました。
自分の右手が自然と持ち上がり、自分の頭をなでながら、繰り返し「えらいね、えらいね」という言葉が口から出てきました。
「ママが病気で一緒にいてあげられなくて、寂しかったよね。大変だったよね。えらいね。あなたもお姉ちゃんもパパも、えらいね」と、母の言葉が脳に直接語りかけられました。
そして、自分への強い愛情も感じました。
母が自分に対して感じていた、無償の強い愛情を、自分の感情として感じました。
身体がなくなってしまったから、生きている時と同じようには交流できないけど、確かに自分のなかに母がいる、と感じました。
母の腕が自分の肩から頭にかけてを抱きしめてくれているのを感じました。
母の身体が自分の身体と重なって、子どものまま止まっていた自分が初めて大人になるのを感じました。
そして、また幻覚を見ました。
川の流れに手を添えると、川が母の髪、山が母の顔になっていました。
「身体がなくなってしまったけど、自分のなかや自然のなかにママはいたんだね」と、自然と思うことができました。
それでもやっぱり、死んでほしくなかった。身体がある状態で、一緒にいてほしかった。
何もしてくれなくていいから、一緒にいて、抱きしめたり頭をなでてくれるだけでよかった。
そんな想いが溢れ、声を上げてたくさん泣きました。たくさん悲しんで、ひとつの気づきに至りました。
みんな、寂しいんだ。
何か見返りを求めて一緒にいる訳じゃない。ただそこにいて、愛情を受け取ってくれる存在がほしいだけなんだ。
ペットを飼っている人も同じ。ただ愛情を注いで、愛情を受け取ってくれる存在がほしいだけ。
いつも私に優しくしてくれる先輩や友人、アメリカのホストファミリーの顔が浮かびました。
ああ、私にいい子でいてほしいとか、何か見返りがほしいとか、そんなんじゃなかったんだ。
ただ、私の魂が綺麗で、愛情を注ぎたいと思うから、注いでくれているだけなんだ。
私はただ、その愛情を受け取って、一緒に楽しい時間を共有するだけで、相手の心を満たしているんだ。
目を開けて自分の手を見つめると、肌がとても滑らかに見えて、「なんて綺麗で可愛いんだろう」と思いました。
「こんなに可愛いんだから、愛情を注ぎたくなるのは当然だよね」
そしてこの可愛い身体は、母が毎日おいしい食事を作って大切に大切に育ててくれたもの。
母が作るおいしい炊き込みご飯、ドリア、魚の煮付け、野菜炒め、にんじんケーキ・・・。
私はいつも、もっと母に愛情を注いであげたかった、と後悔していました。
でも、今なら私のなかに母がいるのを知っている。
今まで私はあまり自分のことを大切に扱ってきませんでした。
食事は安いものでテキトーに済ませたり、お酒やたばこでストレスを紛らわせたり、一時的に手に入る承認や愛情を求めていろんな人と関わったり。
でも、これからは自分で自分においしいご飯を作ってあげて、大切にしてくれる人たちと時間を過ごして、綺麗なものをたくさん見て、楽しい経験をたくさんして、自分と大好きな母にたくさん愛情を注いであげよう、と決心しました。
そして、自分への愛情に満たされながら、その日は眠りにつきました。
▪️アヤワスカ体験 Day2
幼少期の再体験と記憶の再構築
翌日は、昼からセレモニーが始まりました。
スタッフのシャーマンによると、初日のアヤワスカは、身体を自然に近づけるための準備をするもの。2日目のアヤワスカが本番とのこと。
そのため、初日よりも薬の濃度が濃く、吐きそうなひどい味でした。
初日と同じようにベッドに戻って目を閉じますが、1日目のような幻覚はあまり見えません。
身体の感覚が敏感になって、顔や手が勝手に変な動きをして、すこし不快な気分が続きました。
そして突然、口から大きな声がでました。自分の声でないような、自然と出てくる声。
悲しくないのに、まるで呼吸をするためかのように、「ウァァアアアアアア、エヘッエヘッえああああああん」と、赤ん坊のように大声で泣きました。
後から気付きましたが、この日私は、生まれた時から幼少期までの人生を再体験する旅にでていました。
しばらくして泣き声が止むと、幼少期の記憶がたくさん出てきました。
大好きだった、メリーポピンズやハリーポッターやハイスクールミュージカルや、鏡の国のアリス、少女漫画などの物語。
綺麗な実家の食卓で、にこにこしながら「今日は何が食べたい?」と優しく聞いてくる母。
子どもの私は、にこにこしながら答えました。「あのね、あたしね、この時間が大好きだったの。好きなものの本やDVDをいつも買ってもらえて、嬉しかったの。学校の帰りにお花を摘んで帰ると、ママが喜んで花瓶に飾ってくれるのが、嬉しかったの。」
また、父からの愛情も感じることができました。
私は幼少の頃から父が躁鬱病で(発覚したのは最近ですが)、夫婦喧嘩が警察沙汰に発展して家に帰れない、なんてことも多々ありました。父から暴力的な言葉を吐かれたことも多々あり、父は家族を虐待することしか頭にないDV男だと信じていました。
でも、お金をかけてあげることが、彼にとっての愛情表現だったんだ、と気づきました。
感覚が敏感になっているなか、舌が自分の歯をなぞり、「なんで綺麗な歯並びなんだろう。パパは渋々ながら歯科矯正をさせれくれた。小さい頃から習い事もさせてくれた。それがパパにとっての愛情表現だったんだ」と、彼の愛情を自分の感情として感じることができました。
私はそれまで、何の事情も知らない他人の言う「でもお父さんなんだから、あなたのことを愛してるのよ」という言葉が大嫌いでした。今でも、「全ての親は子どもを愛している」なんて綺麗事は絶対に言いません。
それでも、この時、精神病持ちで不器用な父の私に対する愛情を、初めて、自分の感情として理解したのです。
そのあと、夫婦喧嘩をしている母に話しかけました。
「ママ、どうしてそんなにパパに期待するの?全部を求めるから苦しいんだよ。パパにも優しいところ、あったよ。」
「私も同じだね。この人はこういう人なんだ、って、あきらめて、受け入れることが愛情なんだね。」
私は頭のなかで、家族みんなに話しかけました。
「パパ、ママ、お姉ちゃん、みんなそれぞれの方法で愛そうと頑張ったんだね。えらいね。」
今まで私は、母との死別という強烈なトラウマ体験で、自分の幼少期は全て不幸なものだったと錯覚していました。
しかし、この日、赤ん坊の頃から小学生の頃までを再体験し、家族の感情を自分のものとして体験することで、過去への認知を塗り替えることが出来ました。
そしてその日は眠りにつきました。
夜に目が覚めて、ベジタリアンのご飯をみんなで食べて、自分の身体を抱きしめながらまた眠りました。
▪️アヤワスカ体験 Day3
自分の全存在の肯定
3日目は、マジックマッシュルームと、「テマスカル」というスピリチュアルなバージョンのサウナをしました。
マジックマッシュルームを飲むと身体が重くなり、ただベッドに横たわりながら日の光を感じていました。いくつかキラキラとした幻覚も見たように思います。
マジックマッシュルームの効果が切れると、「自分を表現したい」という気持ちが大きくなり、ベランダに出て音楽に合わせてたくさん踊りました。
自然の中でこうして自分を解放するのが好きなんだ、と幸せを噛み締めながら踊りました。
その日の夜はテマスカルの儀式(サウナ)を行いました。
テマスカルとは、ハーブのような植物です。逆さにしたお椀のような形のサウナ房の横で、テマスカル師が石を焚き火で熱しています。
その熱した石とテマスカルをサウナ房の中に入れ、水をかけて蒸気を発生させることで、サウナ状態を作り出します。
水着を着て、いよいよサウナ房の中に入ります。
深呼吸をしながら、テマスカル師の太鼓の音や歌に合わせて、歌を歌ったり、声を出したりします。
だんだんと、熱や呼吸の影響で頭が朦朧としてきます。
それでも歌に合わせて大声を出し続けます。
中には熱やエネルギーに耐えかねて、途中で外に出た人もいました。
そして、歌ったり声を出したりする中で、みんなでたくさんのものに感謝を伝えました。
母なる大地、ありがとう。聖なる水、ありがとう。家族、ご先祖様、ありがとう。存在させてくれて、ありがとうございます。
家族関係が悪かった私は、今までずっと「家族に感謝しなさい」という言葉が大嫌いでした。ちなみに言うと、このような宗教儀式やスピリチュアル儀式も苦手な部類でした。
でもこの時初めて、心の底から、父、母、姉、祖父母、伯父、叔父、全員に、感謝の言葉を叫びました。
ありがとう。私と繋がっていてくれて、ありがとう。私をこの世にいさせてくれて、ありがとう。
その時、やっと、自分の存在全てを受け入れることができたように感じました。
テマスカルは、「子宮」を模しているそうです。
子宮の中に入って、大地と繋がって、テマスカルから出るときに「生まれ変わる」。
テマスカルの儀式が終わると、サウナ房の中に向かって土下座の状態でテマスカルに感謝を伝え、”reborn”(生まれ変わる)と言いながら外に出ました。
シャワーを浴びて施設にあったプールに飛び込むと、空いっぱいの星と木々があまりにも綺麗で、まるで羊水のなかを漂っているようで、幸福で胸が満たされました。
プールで楽しく泳げるのも、両親がスイミングスクールに通わせてくれたからだ、と感謝でいっぱいになりました。
私はこんなにもたくさんのものを与えられている。
日々のストレスや孤独感、忙しさですっかり忘れていた。
「もう、自分に与えられているものを忘れてしまうような生活はしたくない。与えることで、与えられていると感じられる生き方をしたい」と、強く思いました。
私のメキシコでのアヤワスカ体験は、「セルフラブと自信がほしい」という意図を十分すぎるほどに満たしてくれました。
それでも、一度で全てが好転する訳ではありません。
この1か月後の自分の誕生日の日、家族から誕生日祝いのメッセージがもらえず、自暴自棄になってしまいました。(実際は姉はメッセージをくれていたようなのですが、手違いで受け取ることができませんでした)
確かにメキシコでのアヤワスカ体験で、自分の過去に対する認知や行動は変えられました。でも、現在ある孤独やストレスにどう対処すればよいのか、私にはまだ分かりませんでした。
そのため、私は、本場ペルーでもアヤワスカ体験をすることに決めました。
次のセレモニーの意図は、「これから来る孤独やストレスに対処する方法を教えて」です。
ペルーでの体験は、期間が2か月しか開いていなかったこともあってか、メキシコでの体験ほど強烈なものではありませんでした。
しかし、私が設定した意図に対しては、十分すぎる答えを出してくれました。
ペルー体験についての記事は更新次第、リンクを貼ります。
日本が生きづらい!あなたはもしかして「トランスネーション」かも
こんにちは!アル中トラベラーです。
あなたは、日本でこんな生きづらさを抱えていませんか?
・日本の上下関係が息苦しい
・日本特有のマナーが苦手
・時間に厳しい文化が息苦しい
・周りと同じように振る舞う同調圧力が息苦しい
・マイノリティへの理解がない文化が息苦しい
・家族を重んじる文化が息苦しい
・女性は男性の後ろを、という文化が息苦しい
などなど……
日本は清潔で住みやすい反面、島国らしい独特な文化が、色濃く残っている国でもあります。
そんな日本を受け入れて、幸せに暮らせているなら問題ありません。
しかし、気分が慢性的に落ち込んでしまうほど息苦しさを感じているとしたら、あなたは「トランスネーション」かもしれません。
◾️トランスネーションとは
トランスネーションは、私が作った造語です。
例えば、「トランスジェンダー」は、自分の心の性別と身体の性別が違う人の事を指します。
それと同じように、「自分の特性と合わない国に生まれてしまう」ことを、「トランスネーション」と呼びます。
トランスジェンダーの方は、自分の本来の性を表現することで、自分らしさを実感することが多いです。
本来の自分を押し殺して生きるより、本来の自分として生きる方が幸せ、という声をよく聞きます。
トランスネーションは、その感覚に似ていると考えています。
海外で外国人として生きる苦労はあっても、文化が根本的に合わない日本で暮らすより、自分に合う文化の国で生活する方が幸せ、と感じます。
「トランスネーション」という概念は全く浸透していませんが、「自分は間違った国に生まれた」と感じる人は、多いのではないでしょうか。
私の周りで、「この人もトランスネーションだろうな」と思う人の特徴は、下記の通りです。
・いわゆる「常識」に囚われたくない
・時間や規則を細かく守るのが苦手
・厳しい年功序列に憤りを覚える
・意味のないルールに憤りを覚える
・男性はこう、女性はこう、という概念が嫌い
・周りに流されず、自分の意見を持っている
・団体行動が苦手
・周りと違う考え方や行動をするので、「変わった子」と言われる
・「世間の目が」という言葉が嫌い
・楽観的で、「なんとかなるでしょ」という姿勢
・明るくてパーティー好き
・自由人と言われる
などなど。
あなたはいくつ当てはまりますか?
※上記の特徴はなんとなくラテン系寄りの特徴ですが、世界にはいろいろな国と文化があります。
上記に当てはまらなくても、「私はインドの文化に共感する」「私はモロッコで一番居心地が良い」「私はフィリピンにいると落ち着く」「私にはドイツがあっている」など、いろんなトランスネーションのパターンがあると思います。
◾️トランスネーションとして幸せに生きる方法
自分は周りと違うのかもしれない…
私は能力が低いのかもしれない…
自分が「トランスネーション」と気づかずに生活していると、そんな悩みを抱えることがあるかもしれません。
そんな私たちが幸せに生きる方法を、考えてみました!
①日本でトランスネーション友達をつくる
帰国子女だったり、ハーフ、外国人、旅行好きの人達は、意外と日本にもたくさんいます。
常識に囚われず、自分らしさを解放して生き生きと生活している人達です。
そんな人達に囲まれて暮らしていると、自分の生きづらさなんて忘れてしまいます!
近くで、国際交流パーティーや、英会話カフェなどが開催されていないか、ネットで調べてみてください。
②とにかく頻繁に海外にいく
日本にいることがどうしても苦痛なら、お金を貯めたり、休みを調整できる仕事、海外出張が多い仕事を選んで、海外にいる時間を増やすことも可能です。
私は2019年は、祝日に有給をつけて毎月海外に行っていました。
週末にはフラッと近くのアジアへ、GWやお盆などの長期休暇ではヨーロッパ、インド、アフリカなど遠出するサイクルで、本当に日々が楽しかったです。
③海外に住む
もう日本に拠点も要らん!という場合は、思い切って海外に住むことも一つの手です。
・20代ならワーキングホリデーに行く
・語学留学に行く
・intrax を使用する(オーペア:泊まり込みのベビーシッターをしながら、語学学校に通うサービス)
・プログラマーやフリーライター、起業など、オンラインサービスで生計を立てて海外に住む
・美容師やネイリスト、日本料理などの専門技術を身につけて海外で就職する
(日本から応募できます)
などなど、いろいろな方法が考えられます。
まとめ
いかがでしたか?
あなた自身の経験談や感想を、ぜひコメント欄で教えてください!
関連記事:
この国が生きづらい5つの理由 死にたいあなたは悪くない
この国が生きづらい5つの理由 死にたいあなたは悪くない
今日も死にたい、私なんていなくなってしまえばいい、と思っていたあなた、こんにちは。
このブログを開いてくださり、ありがとうございます。
よく精神論で、「悪いのは環境じゃない、心の持ち方だ」と刷り込まれてきた私たちは、苦しい状況にあると「自分がいけないんだ」と信じ込んでしまいます。
でも、本当にそうでしょうか?
海外に行くと、「あれ、日本って格別に生きづらい国なのでは?」と感じます。
今回はその理由についてお話しします。
目次
-
同じ型にはめようとする教育
幼稚園、小学校、中学校、高校と、「多様性」を伸ばそうとしているように見せかけて、大部分は「育てやすくて聞き分けがよくて賢い子になってね」と子どもをしつけます。
みんなと同じようにできないと、「悪い子ね」と目をつけられ、同級生からも浮いてしまいます。
どうしてか?
学校のプログラムが画一的すぎるのです。
みんなで同じ時間に同じ場所に行き、同じ授業をいい子に座って受け、同じテストで高い点数をとる。
当然、座って集中するのが得意な子、他の子と話すのが得意な子、みんなと同じペースで覚えることができる子ばかりではありません。
この段階で、「できない子」「落ち着きのない子」「暗い子」などとレッテルを貼られてしまえば、その自己評価は大人になっても消えません。
-
「親子の絆」で縛りすぎてしまう制度と風潮
親子関係が良好な人たちばかりではありません。つい最近(2018年6月)も、5歳の女の子が虐待されて亡くなる事件がありましたね。
同月、新幹線で無差別に女性2人を切りつけ、男性一人を殺害した小島一朗容疑者も、両親との仲が非常に悪かったそうです。
親は神ではありません。子供と同じ人間です。
時には子供を上手に愛せない親、虐待する親もいます。
そんな時に、「社会全体で子供を育てる」という概念とシステムがあれば、子供は救われます。
しかし、日本では法律が親と子をあまりにも強く縛り付けているために、機能不全家族に生まれた子供は逃げ道がありません。
子供のうちは親への経済的依存から逃げられず、自立してからも親の介護から逃げられません。
こんな世の中に絶望してしまうのは、当然のことです。
-
学歴社会、長時間労働
この国のヒエラルキーは、とても明確です。
たくさん勉強して、いい大学にいって、いい企業に勤める。
そうすれば幸せな人生を歩める。
私たちは呪文のようにこの言葉を聞いて育ちます。
途中で勉強に挫折した人は、「いい企業」への道を断たれ、低収入のスパイラルにはまります。
大学を無事卒業して、いい企業に入ったとしましょう。
待っているのは、長時間労働、無駄な資料作成、上司との上下関係、複雑な人間関係。
いままでなんのために頑張ってきたの?と、泣きたくなってしまう人、死にたくなってしまう人は多いでしょう。(高橋まつりさんの自殺事件:地方のシングルマザー家庭から、猛勉強して東大に入学。卒業後、大手広告会社電通に入社し、過労で自殺)
ここでも多様性が認められない社会が顔を出します。
本来なら、決められたレールの上を時間通りに進む必要などないのです。人より早くても遅くても、回り道をしてもいいはずなのです。
ですが今の日本では、周りより早すぎて浮いていないか?周りより遅れていないか?レールに乗れなかったらどうしよう?
と、常に怯えるような雰囲気を感じます。
学校中退、飛び級、留学、休学、一度就職してから学校に入り直す、高校で起業する、海外で働く、バイトから正社員になる
たくさん道はあるべきなのです。みんなと同じに進む人生なんて、あなたのものではありません。
-
多様性への理解不足
最近は、LGBTIQ+の人たちへの理解が広まってきていますね。
しかし、彼らは本当に唯一のマイノリティーなのでしょうか?
私がアメリカの大学に留学して、驚いたことがあります。
それは、「結構頭のいい大学」なのに、発達障害を持つ人がとても多いということです。
列挙したらきりがありません。
しかも彼らは、そのことを自他ともに個性として受け入れています。
「私ADDもってるんだよね」「あ、そうなの?見えないね」「そうそう、衝動性の方じゃなくて注意欠陥の方なんだ〜」
「知ってるとおり、僕は軽い自閉症を持っているからさ、友達ができなくてすごく辛い時期があったんだ。でも今はこんなに多くの人に誕生日を祝ってもらえて、すごく幸せだよ」
「大変だったねー!!イエーイ!このケーキ食べなよ!」
「(外を歩きながら)僕、靴ってなんで履くのかわかんないんだよね。だから履かない。でも多分スーパーの中は裸足で入れないから、外で待ってるよ」
「え、じゃあ私のサンダル半分こしてピョンピョンして入ろうよ!それかくつあげるからおんぶして!」大学入試や期末試験も、ADDなど集中して試験を受けられない生徒には、一教科に8時間ほどの試験時間が与えられます。
発達障害を持つ子がある種「隔離」されてしまう日本で、こんなことが可能でしょうか。
場所を変えたら、同じ障害を持つ子も、生き生きと自由に暮らしています。
(地域や経済状況によることは承知です。)
-
容姿の過大評価
日本が、特に人を外見で判断する傾向にある国だと知っていましたか?
例えば初対面で、「目が大きいね」「鼻高いね」「美人だね」なんて、よく聞きますよね。
でもそれ、海外では失礼にあたることも。
初対面で外見のことに触れると、「は?どういうこと?それが?」
という反応をされることが多いです。また、日本で「私可愛いから」と言えるのは、本当に顔が整っている人だけですよね。
でも、多くのアメリカ人は、身体の大きさ、にきびの有無、顔の造形に関わらず、自分たちの魅力を知っています。
"I know, I'm pretty"(私が可愛いことくらい知ってるわよ)なんて言葉、しょっちゅう聞きます。
「信じられる?ママったら、私のにきびがひどいから治療しましょう、ですって!にきびがあってもこんなに可愛いのに、失礼すぎるよね」
という友人の発言を聞いたときは、本当に爽快でした!
さらに、ネットやテレビをみれば、そこらじゅうで「ブス」「デブ」「キモい」なんて言葉を目にしますよね。 -
この文化、ほんっとうに独特です。ルッキズム(外見至上主義)を煽るようなメディアが問題視されるようになってきていますが、日本はまだまだ後進国。
人間の価値は顔じゃないんですから。
人の価値を顔の造形で判断するなんて、ヤリモクの猿みたいな人間か、自分の周りに置く人間をアクセサリーとしてしか見れない人がすることです。
(もちろん、清潔感や、恋愛に関しては、外見もある程度大切なのはわかります。でも、デブ!とか、ブス!とか、必要ないのに吠えてる人たち、恥ずかしくない?)
自分をブス、デブ、キモいと思ってしまうひとたち。
間違ってるのは、この国の文化かもしれないません。
まとめ
いかがでしかか?
うわー、たしかに、生きづらい。私のせいじゃなかったんだ、
と、一人でも多くの方に思っていただけたら嬉しいです。
よかったら、読んでくださったあなたの「生きづらいと感じる瞬間」や、「こんな会社やシステムがあったらもっと生きやすいのに」というアイデアを、コメント欄で教えてください!
リストカットをする本当の理由を科学的に説明します。
こんにちは!
ブログを訪れてくださり、ありがとうございます。
さて、リストカット(通称リスカ)を、身近に聞く方も多いのではないでしょうか。
リストカットをする理由はなんでしょうか?
・構って欲しい。
・周りに気づいて欲しい。
・心の傷を目に見えるようにしたい。
・自殺の疑似体験をして自殺を思いとどまりたい。
このような理由が一般的に挙げられていますね。
でも本当は、リストカットは脳科学、心理学的にとても自然なメカニズムから起きているのです。
脳は「孤独」に反応する
脳の活動を調べた社会心理学の実験で、興味深いデータがあります。
人間は身体が傷つけられると、脳の身体的な痛みを感じる部分が活発に反応します。(当たり前ですね。)
ある研究グループは、被験者を故意に集団から疎外し続け、その脳波を調べる実験をしました。
すると、集団から疎外された人の脳は、身体が傷つけられたときと同じ反応をしていたのです。
簡単に言うと、人は孤独を感じると身体的な痛みを感じるのです。
でも、実際は身体は健康そのものです。
脳は不整合を嫌う
脳の重要な機能の一つですが、脳は現実と認識の不整合が大嫌いです。
実際に起こっていることと、脳が信じていることが同じでないと脳は落ち着きません。
孤独を感じるときに脳は身体的な痛みを感じているのに、身体は傷ついていない。
この不整合をなくすために、脳は身体を傷つけるように指令を出します。
リストカットのメリットとデメリット
リストカットをすると、一時的な快感が得られます。
それまで現実と認識の不整合のせいでおかしくなっていた脳が、実際の痛みによって安心感を覚えるからです。
その快感を覚えることで、脳は麻薬中毒者のようにリストカットを繰り返すようになります。
神経が何度も切断され、痛みも感じにくくなります。
しかし、根本にある「孤独感」はそこにあるままです。
そのため、リストカットはどんどん頻繁になり、そのうち高揚感も安心感も感じなくなります。
身体は傷だらけになり、周りの視線や偏見がさらにあなたを孤独にします。
リストカットをする気持ち、すごくわかります。
だってこれは、気持ちの問題ではなくて脳の問題だから。
あなたにはどうしようもない。
ただ、私が知っておきたかったリスクだけをお伝えします。
私も、10年経った今でもくっきりと痕が残っています。一度腱まで切った時に腱と皮膚が繋がってしまい、手首は二度とうまく曲がらないです。
今ではとても幸せですが、この傷は一生隠して生きなければなりません。
リストカットの代わりに何ができるか
どうしても切りたい、という時、推奨されるものではないですが、こうしておけばよかったというものを紹介します。
・目立たないところを傷つける。
私は太ももにも傷がありますが、人目に触れることは滅多にないし、怪我の言い訳もしやすいように思います。左手首だと「いかにも」で隠すのがとても難しいからです。
・痛みや孤独を絵などにして表現する。
脳は感じている痛みが目に見えないために不安定になっています。あなたの痛みが、言葉、絵、彫刻など何か具体的なもので充分に表現できれば、あなたの脳も少し落ち着くはずです。
・ピアスを開ける。
ピアスの傷なら、リストカットほど偏見がなく、隠す必要もありません。
推奨はできませんが、私は安全ピンで8回ほど穴を開けたり塞いだりしました。
・献血に行く。
※これは身体に傷をつけたりピアスを開けたりしてから行ってはいけません!!
血液中に雑菌が入り、そのせいで輸血された患者さんが亡くなるリスクがあります。
傷が完全に治るまで待ちましょう。
献血は一番のおおすすめです。血が見れるし、痛みや血を抜かれている感覚がわかるし、何より感謝されて人のためになれます。
自分でも誰かのためになれることが実感できます。
途中から血液濃度が足りなくなったり、睡眠障害で服薬を始めたりして
私はできなくなってしまいましたが、できる方は是非、輸血を待っている患者さんを
助けに行ってあげてください。
リストカットをやめるための代替案を紹介いたしました。
●リストバンド販売について
当方、私自身も使用している、リストカットを隠す肌色のリストバンド・アームバンドの販売を行なっています。
自身もリストカット跡を隠して生活しているため、伸縮性がよく、洗って何回も使える、肌色のリストバンドを作成いたしました。
ひとつ800円で販売しています。興味のあるかたは、ご連絡ください。
メルカリ:
https://www.mercari.com/jp/u/709297759/
よろしければ、あなたの声を聞かせてください。
読んでくださりありがとうございました。
「死にたい」から名門大学に進学しました。
はじめまして。
高校のときに仲良しの母を病気で失って鬱を発症し、自殺を決意した私が、半年で偏差値を40上げて早稲田や上智などの難関私大に全合格した話をします。
大切な人を失って辛い方、なにもかも辛くて死にたいと思う方、受験生の方、将来が見えない方に見てほしい。
生きてくださいなんて言いません。
この言葉がどんなに残酷に聞こえるかも、あなたが地獄のように辛い日々を送っていることも、明るい将来なんてカケラも見えないことも分かってます。
今は地獄のように辛いです。地獄の血の海でどんなに這い上がろうともがいても、苦しくて疲れてどんどん溺れていくだけです。
今回は、私が血の海の中で溺れていたとき、どうやって力が抜けて浮かびあがってこられたか、あなたとシェアしますね。
■母の発病
2008年12月(小6~中学生)
まずは少し背景をお話します。
私の母はとても愛情深くて、努力家で、誰にでも優しい可愛らしい人でした。
父と結婚して専業主婦になりましたが、
私が生まれて来る頃には二人には大きなすれ違いがあり、夫婦喧嘩ばかりの日々でした。
気分転換に家から出たくても、働きたくても、
父からの束縛や両家からのプレッシャーがあり、7年程孤独とストレスと闘っていたようです。
その結果、私が小学6年生のとき、白血病を発症してしまいました。
それから母が4年間入退院を繰り返す間、私は父と家で二人になり、
偏った食生活やストレスからだんだん精神を病んでいきました。
私は中学生でしたが、父と母と私で大喧嘩になり、
父に暴力を振るわれそうになって警察沙汰になったり、家に帰れなくなって母とホテルを泊まり歩いたり、目の前で母が自殺未遂したり、辛いことがたくさんありました。
父との同居が限界だったので、母の実家にお世話にもなりましたが、伯父も祖母も、甘く優しい母に比べると言葉が厳しいことがありました。
そんな慣れない環境の中で心を休める場所もなく、ふとした言葉に毎日傷つき、私もぼろぼろになっていきました。
■うつ発症
2011年(高校1年生)
母は、親切なドナーさんが見つかったり、良いお医者さんについてもらったりしましたが、父や家族へ寄せては裏切られる期待、孤独、不安、ストレスで、母の容態はどんどん悪くなりました。(福島原発事故の後、周りで癌の発症が激増していたので、その影響もあるかもしれません)
母が亡くなる前は、普段は1ヶ月ほどで終わる入院が長引いていました。
いつも1ヶ月ほどで私の精神が限界になってしまい、母が無理矢理退院してくるという流れだったのですが、この頃母の容態はとても悪かったです。
私は、「もう高校生だからママに心配かけちゃいけない!!」と考え、不安を表に出さないよう必死でした。
学校も休みがちになっていたし、母は気付いてたみたいですが。
私は頼れるひとも分かってくれる人もいなくて、孤独で、大好きな母が死んじゃうんじゃないかと不安で、
ご飯はいつもコンビニで(これめちゃくちゃ心身に悪いです!)、でもそれを分かってくれない人たちは毎日「学校に来い」「学校に行け」と言ってきました。
いつもはギリギリ保っていた私の脳は「死んだらこの苦しみから逃げられる」と考えるようになりました。
ストレスは私がコントロールできる範囲を大きく超えていました。
でも、死にたいと思っても、「私のために一生懸命闘病してくれてるママが悲しんでしまう!」と思い直し、リストカットを繰り返して自殺を思い留まっていました。
(うつ状態になると、脳の理性が停止してしまい、
自分を傷つけたり殺そうとしたりする機能不全を起こしてしまうんです。リスカとか自殺に、意思の強さとか意図とかは全く関係ないんです。この話もまた書きますね。)
不安で不安で、不眠症も始まってたので、ずっと精神科に通って、毎日薬で無理矢理眠っていました。
■母の死
2012年(高校生2年生)
高校2年生になる前の3月15日、母が亡くなりました。
どんなときも私が不安がると、
「絶対大丈夫だよ、ママはこんなに可愛い娘を置いていったりしないよ」
と励ましてくれていたので、まさか本当に死んじゃうなんて信じられませんでした。
たくさん泣いたら、また母が抱きしめにきてくれるような気がして、大声で泣くのを堪えられませんでした。
でも、母は永遠にいってしましました。
私の自殺を思いとどまらせていた唯一の存在がいなくなってしまい、私はどん底まで落ちてしまいました。
母を救ってあげられなかった罪の意識でひどい不眠症になり、3日間一睡もできないサイクルが続き、夜も昼も自分を責める声が何十時間も聞こえ続けました。
「私が生まれたからママは死んだんだ」
「私がもっと良い子だったらママを助けられたのに」
「私がママを殺したんだ!!!」
「私さえいなければ」
「ママも私を許してくれない」……
(まさに地獄!!!二度と戻りたくない・・・)
ママがいない、こんな世界に私がいる理由なんてないな、きっとママも天国で私と離れてて寂しいはず。
ママがここからいなくなっちゃったなら、私がママのところに行けばいい。そしたらママも許してくれるだろう。
そう考えて、今日死のう、今日死のう、と何度もトライしてました。
マフラーでも紐でも結べるところに結んで、首を吊って、命が終わるのを待ちました。
でも、上手くいきませんでした。
首を吊って意識を失った途端に、身体が勝手に動いて首から縄をはずしてる。
「首吊りが1番楽って聞いたけど、私には無理みたいだな〜」と、飛び降り自殺にしようと思いました。
■自殺を決意、担任の救い
2012年5月12日(高校2年生)
私は高校の出席日数が足りず退学ギリギリだったので、私と姉と伯父と(私は母の死後も母方の祖母と伯父と住んでました)、担任と学年主任と面談がありました。
担任への体裁や、私の将来のことを懸念した伯父が、
「これからは厳しく接する時期だと思っています。学校に行かせます」
と言いました。
当時の伯父の意図など分からない私は、「あ、もう死ぬしかない」と決意しました。
生きてるだけで毎日精一杯なのに、「学校に行くのは当たり前だ」と厳しく接する伯父に絶望していました。
毎日毎日、家で死にたがっている私を皆に批判されているように感じ、私は生きている意味を日々失っていました。
■2012年5月14日
すごく綺麗に晴れた日でした。
今日、学校の近くのここから飛び降りよう。
やっとこのひどい世界からいなくなれる。ママと幸せになれる。
そう決心して、登校しました。
担任の先生は大好きだから、彼女の顔をみて、友達に挨拶をして、それから大好きな学校の近くで死のうと思いました。
でも、授業中、ずっと涙が止まらないのです。
この辛い毎日から開放されて幸せになれるはずなのに、思い浮かぶのは小さい頃の楽しい思い出と、どれだけママが私を愛していて、幸せを願ってくれていたか。
明らかに、身体が私を引き留めていました。
私の脳はストレスでおかしくなっていたけど、いざ死のうとすると、細胞がそれを止めてくれました。
母が、「あなたはいい大学に行って、素敵な人に出会って幸せになるのよ。ママにはできなかったけど、あなたならできるよ」と言ってくれていたのも、私に希望をくれていました。
身体が生きたがってるのにこのまま死ぬのはきっと間違ってる…
そう感じて、いつも気遣ってくれていた担任の先生(若くてきれいな女性の方でした)に、「少しお話してもいいですか?」と話しにいきました。
先生は快く時間を作ってくれて、下校時刻が過ぎても真摯に話を聞いてくれました。
「今日、死ぬつもりだったんです。」と正直に話すと、
「話しに来てくれて本当によかった。」
「あなたが死んだら、私もすごく傷つくし、お姉さんもお母さんも悲しむ。友達もみんな悲しむよ。」
「大変なのに友達の前では明るく振る舞ったり、遠くの学校まで来たり、本当に頑張ってて偉いよ。ちゃんと見てたよ。」
「お母さんもあなたが死んだら自分を責めちゃうしとても辛いと思うよ。あなたのことが大好きだったでしょう」
「もう頑張らなくていいから、ゆっくり一緒に乗り越えていこうね。いつでも相談にのるから」
と、本当に優しくしてくれました。
毎日辛いだけで、生きてる価値もないと思ってたのに、頑張ってる姿を褒めてくれて、私が愛されてることを思い出させてくれました。
この日から、自殺をすると先生も悲しむから、あからさまな自殺はやめよう、と思いました。
(うつ病のときの自殺願望は簡単には消えません)
■ 新しい自殺方法
2013年1月(高校生2年生)
先生と話したあとも、ひどい不眠症は治りませんでした。
誰も母のように私を愛してくれる人はいない。孤独でした。
優しい言葉を使う母と違い、ハッキリとモノを言う祖母と伯父との同居も当時の私にはストレスでした。
毎日、吐き気と腹痛と自殺願望と不眠。
今日も死なずに終わった、今日も生きられた、というギリギリの状態でした。
そこで私が見つけた逃げ道。
「首吊りも飛び降りもだめ。自殺もだめ。
でも、誰もママの病死を責めてない。
むしろ同情されてる。
あっ私も重い病気になって死ねばいいんだ!!(*‘ω‘ *)」
(すごい発想・・・)
母が病気で亡くなった原因は、おそらくストレス。
今の私が死ぬほどやりたくないこと、ストレスに感じることってなんだろう…
……勉強だ!!!
(うつ状態で思考力が低下してたので、本当に勉強したくなかったのです)
その日から、片っ端から問題集やテスト問題を見直して、自分ができないところを解き始めました。
1~2年間不登校だったので、もちろん全然わかりません。英語のテストは7点でした。
でも、「あーもうやだ、わかんないし辛い、やめたい」と思うたび、
「あ、私、ストレス感じてる、死に近づいてる…
ふふ、いいぞ…病気になるぞ…もっとやってストレスかけるぞ…」
と思っていました。まさに狂気。
勉強に集中していれば、いなくなってしまった母のことや高圧的な父、私が求める優しい言葉をかけてくれない伯父と祖母、理解してくれない先生や同級生などのことも考えなくてよかったので、私にとっての唯一の逃げ道でした。
伯父に傷つくことを言われても(心を病んでいた私にはどんな言葉も心をえぐられるようでした)、「これを我慢して自分にストレスをかければ死期が早まる。」と考えると気分が明るくなりました。
辛さのはけ口が見つかった気分でした。
夜に眠れないと不眠の恐怖が襲ってくるのと、朝遅く登校すると通勤ラッシュがひどいので、朝4時に起きて始発で学校に行き、1日10時間くらい勉強して夜クタクタになって寝る、という生活にしました。
どうせ誰も分かってくれないし助けてくれないから、誰にも心を開かず、明るい自分を装って、部屋に引きこもっていました。
■成績上昇
2013年3月(高校2年生)
そんな狂気じみた生活を2ヶ月くらいしていたら、全国模試の結果が学年5位になってました。
周りからは、「え?!あいつ学校来てなかったよね?!しかも前回ビリだったよね?!」とめちゃくちゃびっくりされました。
ただ、私にとって勉強は辛さから逃れるための手段でしかなかったので、「こんな数字で私への評価が変わるのね。誰も私自身に興味なんてないんだ」と内心はとても醒めてました。
■ 新しい目標
ある夜、眠れないまま自分を責めていました。
どうやったら母が自分を許してくれて、この悪魔のような子(その頃は自分のことをそう思い込んでいました)を生んでよかったと思ってくれるだろうと考えていました。
ふと、「困ってる人を助けられる人になってね」という母の言葉を思い出しました。
ひらめきました。
「今まで私にかけてくれたお金と愛情を、それを持っていない人に分配してあげれば、もし私が死んでも無駄死ににはならないはず…。」
(前提に自殺願望があります。)
困っている人は誰だろう、どこにいるんだろう、と考えると、世界史で習った三角貿易のことを思い出しました。
「先進国は、アフリカを搾取して発展したんだよな。
日本も今その恩恵で発展しているんだよな。だからまあ、我々も考えなきゃいけないよね、犠牲の上の恩恵を享受してるわけだから。」
大好きな世界史のおじいちゃん先生が言ってたことを思い出しました。
ここで何かが変わりました。
「私はいい大学に行って、頭がよくなって、アフリカの貧困を救う!貧しい国の人を救う!そしてたくさんの人に感謝される人になれば、ママも私を誇りに思ってくれる!」という結論に至りました。
そこで、オープンキャンパスでその雰囲気に惚れ込んだ上智大学への入学を決意しました。
(早慶や国立など他の大学も全て見ましたが、個人的に上智のこじんまりした雰囲気が1番好きでした。
大好きな担任の先生もそこの出身なので、なおさらでした。)
■受験勉強本腰
2013年5月(高校3年生)
勉強に本腰を入れるまで、まだすごく病んでいたし、薬も飲んでいたし、リストカットの代わりに安全ピンでピアスをあけたり、傷が塞がってから献血に行ったりしていました。
(※ピアス/自傷と献血は同時にしてはだめです。献血したい時は身体の傷が全て完全に塞がった状態で!!輸血先の患者さんの命に関わります)
しかし、勉強というツールと上智大学に行くという夢を手に入れてからは強かったです。
毎日母が夢に出てきてはもうこの世にいないことを確認させられたり、伯父や祖母や他の先生や友人からのさりげない言葉に傷ついたけど、その度に、
「勉強に打ち込めば全て忘れられる」
「ストレスを感じればうまくいけば死ねる」
「もしストレスが足りなくて死ねなくても行きたい大学に行ける」
と自分を慰めてひたすら問題を解いていました。
そんな調子で勉強しかしてなかったので、相変わらず学校は最低限しか行っていませんでしたが、成績は常にトップでした。
自殺に走ってしまう人の理由として、未来に希望をいだけない、というのがとても多いのだそうです。
私は大好きな母を失ったけど、その母のために人の役に立てる人になるという希望を見つけました。
行きたい大学で楽しいことをたくさんするという目標を見つけました。
自殺願望が薄れてきてからも、上智大学への恋心は止まらず、大学のパンフレットを抱きしめたり部屋に貼ったりして、大学生の幸せな自分を想像して
また机に向かいました。
体調はまだかなり悪くて、しょっちゅう寝込んだり過呼吸を起こしたりしていましたが、具合が悪いときは薬を飲んで14-20時間くらい一気に寝て、起きても具合が悪ければ横になりながら英単語のCDをひたすら聞き流していました。
2013年9月
受験勉強の基礎力は完璧に、応用力もかなりついてきたので、過去問を解くフェーズに入りました。
上智大学は英語も世界史も訳が分からないくらいコアな問題ばかりなのですが、
どうしても入りたかったので、上智の過去問だけ16年分解きました。(他の大学の対策はほとんどしませんでした。)
高3の最初は3割くらいしか正解できませんでしたが、繰り返し解くうちに毎回8割ほどとれるようになりました。
この時期からはどの大学のどの学部の問題も簡単に見えて、周りからも頭がいいと尊敬され、勉強や通学さえも楽しかったです。
2014.2月
受験はなんの不安もありませんでした。
狂ったように過去問を解きまくっていたので、いつも通りにやれば受かると確信していました。
上智は4学部受けて、全て合格しました。
この時点で受験は終えてもよかったのですが、学校側も合格実績は良ければ良いほど助かるし、担任の先生も学校から褒められると聞いたので、一応早稲田大学の国際教養学部も受けました。
気が緩んでしまい過去問も解く気になれず、受験会場の待ち時間で軽く問題形式をチェックしただけですが、すでに知らない受験英単語はない境地にあった私はあっさり合格しました。
■執筆現在の私から高校生の私へメッセージ
2017年(大学4年生)
今では大学4年生(2017年現在)で、大学4年間を全力で楽しんできました。
サークルやボランティアを引っ張ったり(サークルは3つ、バイトも3つ、ボランティアは2つ経験しました)、初めての海外旅行に行ったり(バイトで貯めたお金で、イタリア、台湾、フランス、イギリスに行きました)、お酒を覚えたり、セクシャリティについて悩んで新宿二丁目に入り浸ったり、初めての彼女ができたり、1年間アメリカ留学したり、留学先で初めて本気の恋愛をしたり、遠距離恋愛中の彼氏と結婚計画を立てたり、留学後の1ヶ月半で内定4つ獲得したり……
目まぐるしい日々で、未だに母のことを思って泣くことも多いし、病み体質は少し残ったし、最初は体調を崩すことも多かったけど、それを紛らわすように忙しくいろんなところに行って、必死に自分の居場所をつくろうとするのは楽しかったです。
新しい世界をたくさん知ることができました。
留学中に初めての彼氏ができてからは、自分を愛してくれる人、そして自分も対等に愛する人が見つかって、精神は安定し、体調はかなりよくなりました。
毎日笑って、美味しいものを食べて飲んで(服薬中は味覚障害だったので、今は本当にご飯が美味しいです…♡)「あなたはいつも幸せそうだね」とみんなから言われます。
辛い時期を知っているからこそ、美味しいご飯や小さな優しさ、健康な身体、道端の綺麗な花、全てがうれしいです。
長い時間がかかりましたが、私が幸せになったのを見て、母も安心して幸せでいてくれていると思います。
母の肉体はもうお空に消えてしまいましたが、母が私にくれた愛はずっと私の中に残って、私を守ってくれました。
私は今とても幸せです。リストカットの跡はくっきりと残っているし、心の傷はふとした瞬間に開いたりするけど、それでも、死ぬしかないと思っていた私でも今はとても幸せです。
同じような苦しい思いをしている方がいたら、それを知っていてほしいです。
頑張ろうとしないで、自分を責めないで。
誰も分かってくれない時は、没頭できることを探してみてください。
ゲームでも漫画でもなんでもいいです。
無意識でもあなたを傷つけてしまう人、わかってくれない人には、心を閉ざして距離を置いた方がいいこともあります。
私は心を閉ざして誰にも期待しないようになってから、格段に楽になりました。
心を完全に閉ざしていた伯父とも今は仲良しです。
距離をとったおかげで、辛かった時は心を閉ざしていた友達とも今は親友です。
父とも、長い別居の末、今では一緒にご飯も食べられますし、ありがとうも言えます。
辛い時は人間関係を処理する余裕なんてないんですから。
ネットの馬鹿な悪口やサイトを見ないでください。
(特ににちゃんねるとかガルチャンは危険です!無責任なこと言う教養のない暇人がたくさんいます。健康な時はいいですが、病んでる時は厳禁ですよ。)
私はリスカについてや鬱について調べまくって、必要のない暴言に殺されそうになりました。
自分を責めないで。あなたは悪くありません。
あなたを責める声は、ストレスに耐え続けて疲れ切った脳が作り出している幻想です。
未来で誰かがあなたのことを必要としています。
■まとめ
・自分を責めないで。世界において、法を犯している訳でもないのに「子どもが悪い」状況なんてほとんどありません。
・うつ状態の時、脳は逃げ道ばかりを探そうとします。その声をかき消せる何かを探してみてください。
ノートに気持ちを書いたり、絵を書いたり、本を読んだり、勉強したり、走ったり、なんでもいいです。
その努力があなたを助けてくれるかもしれません。
・時には誰からの心を閉ざして、誰にも期待しない方が楽になります。
人なんてみんな自分中心ですから、周りは気にしないでください。傷つけてることにすら彼らは気付かないんです。
・生きているかぎり、あなたも幸せになれます。
私が病んでいるとき、似ている境遇の人に会いたかったのに見つからなかったのがとても辛かったので、私の経験を紹介させていただきました。
「ひとりじゃない」と思っていただけたら、幸いです。
是非、コメント欄であなたの声を聞かせてください。