世界をひとり飲み歩く。

大企業OL×フリー英会話講師。月1旅行を謳歌しつつ、家庭不和で辛い思春期を送った高校生の自分に向けたブログを書いています。

「死にたい」から名門大学に進学しました。

f:id:happielife:20210623113042j:plainはじめまして。

高校のときに仲良しの母を病気で失って鬱を発症し、自殺を決意した私が、半年で偏差値を40上げて早稲田や上智などの難関私大に全合格した話をします。

大切な人を失って辛い方、なにもかも辛くて死にたいと思う方、受験生の方、将来が見えない方に見てほしい。

生きてくださいなんて言いません。
この言葉がどんなに残酷に聞こえるかも、あなたが地獄のように辛い日々を送っていることも、明るい将来なんてカケラも見えないことも分かってます。

今は地獄のように辛いです。地獄の血の海でどんなに這い上がろうともがいても、苦しくて疲れてどんどん溺れていくだけです。
今回は、私が血の海の中で溺れていたとき、どうやって力が抜けて浮かびあがってこられたか、あなたとシェアしますね。

■母の発病

2008年12月(小6~中学生)


まずは少し背景をお話します。

私の母はとても愛情深くて、努力家で、誰にでも優しい可愛らしい人でした。

父と結婚して専業主婦になりましたが、
私が生まれて来る頃には二人には大きなすれ違いがあり、夫婦喧嘩ばかりの日々でした。

気分転換に家から出たくても、働きたくても、
父からの束縛や両家からのプレッシャーがあり、7年程孤独とストレスと闘っていたようです。

その結果、私が小学6年生のとき、白血病を発症してしまいました。

それから母が4年間入退院を繰り返す間、私は父と家で二人になり、
偏った食生活やストレスからだんだん精神を病んでいきました。

私は中学生でしたが、父と母と私で大喧嘩になり、
父に暴力を振るわれそうになって警察沙汰になったり、家に帰れなくなって母とホテルを泊まり歩いたり、目の前で母が自殺未遂したり、辛いことがたくさんありました。

父との同居が限界だったので、母の実家にお世話にもなりましたが、伯父も祖母も、甘く優しい母に比べると言葉が厳しいことがありました。
そんな慣れない環境の中で心を休める場所もなく、ふとした言葉に毎日傷つき、私もぼろぼろになっていきました。


■うつ発症

2011年(高校1年生)


母は、親切なドナーさんが見つかったり、良いお医者さんについてもらったりしましたが、父や家族へ寄せては裏切られる期待、孤独、不安、ストレスで、母の容態はどんどん悪くなりました。(福島原発事故の後、周りで癌の発症が激増していたので、その影響もあるかもしれません)


母が亡くなる前は、普段は1ヶ月ほどで終わる入院が長引いていました。

いつも1ヶ月ほどで私の精神が限界になってしまい、母が無理矢理退院してくるという流れだったのですが、この頃母の容態はとても悪かったです。

私は、「もう高校生だからママに心配かけちゃいけない!!」と考え、不安を表に出さないよう必死でした。
学校も休みがちになっていたし、母は気付いてたみたいですが。



私は頼れるひとも分かってくれる人もいなくて、孤独で、大好きな母が死んじゃうんじゃないかと不安で、
ご飯はいつもコンビニで(これめちゃくちゃ心身に悪いです!)、でもそれを分かってくれない人たちは毎日「学校に来い」「学校に行け」と言ってきました。

いつもはギリギリ保っていた私の脳は「死んだらこの苦しみから逃げられる」と考えるようになりました。
ストレスは私がコントロールできる範囲を大きく超えていました。


でも、死にたいと思っても、「私のために一生懸命闘病してくれてるママが悲しんでしまう!」と思い直し、リストカットを繰り返して自殺を思い留まっていました。

うつ状態になると、脳の理性が停止してしまい、
自分を傷つけたり殺そうとしたりする機能不全を起こしてしまうんです。リスカとか自殺に、意思の強さとか意図とかは全く関係ないんです。この話もまた書きますね。)

不安で不安で、不眠症も始まってたので、ずっと精神科に通って、毎日薬で無理矢理眠っていました。


■母の死

2012年(高校生2年生)


高校2年生になる前の3月15日、母が亡くなりました。

どんなときも私が不安がると、

「絶対大丈夫だよ、ママはこんなに可愛い娘を置いていったりしないよ」

と励ましてくれていたので、まさか本当に死んじゃうなんて信じられませんでした。
たくさん泣いたら、また母が抱きしめにきてくれるような気がして、大声で泣くのを堪えられませんでした。

でも、母は永遠にいってしましました。

私の自殺を思いとどまらせていた唯一の存在がいなくなってしまい、私はどん底まで落ちてしまいました。

母を救ってあげられなかった罪の意識でひどい不眠症になり、3日間一睡もできないサイクルが続き、夜も昼も自分を責める声が何十時間も聞こえ続けました。


「私が生まれたからママは死んだんだ」

「私がもっと良い子だったらママを助けられたのに」

「私がママを殺したんだ!!!」

「私さえいなければ」

「ママも私を許してくれない」……

(まさに地獄!!!二度と戻りたくない・・・)


ママがいない、こんな世界に私がいる理由なんてないな、きっとママも天国で私と離れてて寂しいはず。
ママがここからいなくなっちゃったなら、私がママのところに行けばいい。そしたらママも許してくれるだろう。


そう考えて、今日死のう、今日死のう、と何度もトライしてました。


マフラーでも紐でも結べるところに結んで、首を吊って、命が終わるのを待ちました。


でも、上手くいきませんでした。


首を吊って意識を失った途端に、身体が勝手に動いて首から縄をはずしてる。


「首吊りが1番楽って聞いたけど、私には無理みたいだな〜」と、飛び降り自殺にしようと思いました。



■自殺を決意、担任の救い

2012年5月12日(高校2年生)



私は高校の出席日数が足りず退学ギリギリだったので、私と姉と伯父と(私は母の死後も母方の祖母と伯父と住んでました)、担任と学年主任と面談がありました。

担任への体裁や、私の将来のことを懸念した伯父が、
「これからは厳しく接する時期だと思っています。学校に行かせます」
と言いました。

当時の伯父の意図など分からない私は、「あ、もう死ぬしかない」と決意しました。
生きてるだけで毎日精一杯なのに、「学校に行くのは当たり前だ」と厳しく接する伯父に絶望していました。


毎日毎日、家で死にたがっている私を皆に批判されているように感じ、私は生きている意味を日々失っていました。



■2012年5月14日

すごく綺麗に晴れた日でした。
今日、学校の近くのここから飛び降りよう。
やっとこのひどい世界からいなくなれる。ママと幸せになれる。


そう決心して、登校しました。
担任の先生は大好きだから、彼女の顔をみて、友達に挨拶をして、それから大好きな学校の近くで死のうと思いました。


でも、授業中、ずっと涙が止まらないのです。
この辛い毎日から開放されて幸せになれるはずなのに、思い浮かぶのは小さい頃の楽しい思い出と、どれだけママが私を愛していて、幸せを願ってくれていたか。


明らかに、身体が私を引き留めていました。
私の脳はストレスでおかしくなっていたけど、いざ死のうとすると、細胞がそれを止めてくれました。


母が、「あなたはいい大学に行って、素敵な人に出会って幸せになるのよ。ママにはできなかったけど、あなたならできるよ」と言ってくれていたのも、私に希望をくれていました。


身体が生きたがってるのにこのまま死ぬのはきっと間違ってる…


そう感じて、いつも気遣ってくれていた担任の先生(若くてきれいな女性の方でした)に、「少しお話してもいいですか?」と話しにいきました。

先生は快く時間を作ってくれて、下校時刻が過ぎても真摯に話を聞いてくれました。


「今日、死ぬつもりだったんです。」と正直に話すと、

「話しに来てくれて本当によかった。」

「あなたが死んだら、私もすごく傷つくし、お姉さんもお母さんも悲しむ。友達もみんな悲しむよ。」

「大変なのに友達の前では明るく振る舞ったり、遠くの学校まで来たり、本当に頑張ってて偉いよ。ちゃんと見てたよ。」

「お母さんもあなたが死んだら自分を責めちゃうしとても辛いと思うよ。あなたのことが大好きだったでしょう」

「もう頑張らなくていいから、ゆっくり一緒に乗り越えていこうね。いつでも相談にのるから」

と、本当に優しくしてくれました。


毎日辛いだけで、生きてる価値もないと思ってたのに、頑張ってる姿を褒めてくれて、私が愛されてることを思い出させてくれました。

この日から、自殺をすると先生も悲しむから、あからさまな自殺はやめよう、と思いました。

うつ病のときの自殺願望は簡単には消えません)


■ 新しい自殺方法

2013年1月(高校生2年生)


先生と話したあとも、ひどい不眠症は治りませんでした。
誰も母のように私を愛してくれる人はいない。孤独でした。
優しい言葉を使う母と違い、ハッキリとモノを言う祖母と伯父との同居も当時の私にはストレスでした。

毎日、吐き気と腹痛と自殺願望と不眠。
今日も死なずに終わった、今日も生きられた、というギリギリの状態でした。


そこで私が見つけた逃げ道。
「首吊りも飛び降りもだめ。自殺もだめ。
でも、誰もママの病死を責めてない。
むしろ同情されてる。

あっ私も重い病気になって死ねばいいんだ!!(*‘ω‘ *)」
(すごい発想・・・)


母が病気で亡くなった原因は、おそらくストレス。
今の私が死ぬほどやりたくないこと、ストレスに感じることってなんだろう…


……勉強だ!!!
うつ状態で思考力が低下してたので、本当に勉強したくなかったのです)

その日から、片っ端から問題集やテスト問題を見直して、自分ができないところを解き始めました。
1~2年間不登校だったので、もちろん全然わかりません。英語のテストは7点でした。


でも、「あーもうやだ、わかんないし辛い、やめたい」と思うたび、
「あ、私、ストレス感じてる、死に近づいてる…
ふふ、いいぞ…病気になるぞ…もっとやってストレスかけるぞ…」
と思っていました。まさに狂気。


勉強に集中していれば、いなくなってしまった母のことや高圧的な父、私が求める優しい言葉をかけてくれない伯父と祖母、理解してくれない先生や同級生などのことも考えなくてよかったので、私にとっての唯一の逃げ道でした。


伯父に傷つくことを言われても(心を病んでいた私にはどんな言葉も心をえぐられるようでした)、「これを我慢して自分にストレスをかければ死期が早まる。」と考えると気分が明るくなりました。
辛さのはけ口が見つかった気分でした。


夜に眠れないと不眠の恐怖が襲ってくるのと、朝遅く登校すると通勤ラッシュがひどいので、朝4時に起きて始発で学校に行き、1日10時間くらい勉強して夜クタクタになって寝る、という生活にしました。

どうせ誰も分かってくれないし助けてくれないから、誰にも心を開かず、明るい自分を装って、部屋に引きこもっていました。


■成績上昇

2013年3月(高校2年生)

そんな狂気じみた生活を2ヶ月くらいしていたら、全国模試の結果が学年5位になってました。

周りからは、「え?!あいつ学校来てなかったよね?!しかも前回ビリだったよね?!」とめちゃくちゃびっくりされました。

ただ、私にとって勉強は辛さから逃れるための手段でしかなかったので、「こんな数字で私への評価が変わるのね。誰も私自身に興味なんてないんだ」と内心はとても醒めてました。


■ 新しい目標

ある夜、眠れないまま自分を責めていました。
どうやったら母が自分を許してくれて、この悪魔のような子(その頃は自分のことをそう思い込んでいました)を生んでよかったと思ってくれるだろうと考えていました。

ふと、「困ってる人を助けられる人になってね」という母の言葉を思い出しました。

ひらめきました。

「今まで私にかけてくれたお金と愛情を、それを持っていない人に分配してあげれば、もし私が死んでも無駄死ににはならないはず…。」
(前提に自殺願望があります。)


困っている人は誰だろう、どこにいるんだろう、と考えると、世界史で習った三角貿易のことを思い出しました。


「先進国は、アフリカを搾取して発展したんだよな。
日本も今その恩恵で発展しているんだよな。だからまあ、我々も考えなきゃいけないよね、犠牲の上の恩恵を享受してるわけだから。」


大好きな世界史のおじいちゃん先生が言ってたことを思い出しました。
ここで何かが変わりました。


「私はいい大学に行って、頭がよくなって、アフリカの貧困を救う!貧しい国の人を救う!そしてたくさんの人に感謝される人になれば、ママも私を誇りに思ってくれる!」という結論に至りました。


そこで、オープンキャンパスでその雰囲気に惚れ込んだ上智大学への入学を決意しました。

早慶や国立など他の大学も全て見ましたが、個人的に上智のこじんまりした雰囲気が1番好きでした。
大好きな担任の先生もそこの出身なので、なおさらでした。)


■受験勉強本腰

2013年5月(高校3年生)

勉強に本腰を入れるまで、まだすごく病んでいたし、薬も飲んでいたし、リストカットの代わりに安全ピンでピアスをあけたり、傷が塞がってから献血に行ったりしていました。
(※ピアス/自傷献血は同時にしてはだめです。献血したい時は身体の傷が全て完全に塞がった状態で!!輸血先の患者さんの命に関わります)


しかし、勉強というツールと上智大学に行くという夢を手に入れてからは強かったです。


毎日母が夢に出てきてはもうこの世にいないことを確認させられたり、伯父や祖母や他の先生や友人からのさりげない言葉に傷ついたけど、その度に、
「勉強に打ち込めば全て忘れられる」
「ストレスを感じればうまくいけば死ねる」
「もしストレスが足りなくて死ねなくても行きたい大学に行ける」
と自分を慰めてひたすら問題を解いていました。

そんな調子で勉強しかしてなかったので、相変わらず学校は最低限しか行っていませんでしたが、成績は常にトップでした。


自殺に走ってしまう人の理由として、未来に希望をいだけない、というのがとても多いのだそうです。
私は大好きな母を失ったけど、その母のために人の役に立てる人になるという希望を見つけました。
行きたい大学で楽しいことをたくさんするという目標を見つけました。


自殺願望が薄れてきてからも、上智大学への恋心は止まらず、大学のパンフレットを抱きしめたり部屋に貼ったりして、大学生の幸せな自分を想像して
また机に向かいました。


体調はまだかなり悪くて、しょっちゅう寝込んだり過呼吸を起こしたりしていましたが、具合が悪いときは薬を飲んで14-20時間くらい一気に寝て、起きても具合が悪ければ横になりながら英単語のCDをひたすら聞き流していました。



2013年9月

受験勉強の基礎力は完璧に、応用力もかなりついてきたので、過去問を解くフェーズに入りました。
上智大学は英語も世界史も訳が分からないくらいコアな問題ばかりなのですが、
どうしても入りたかったので、上智の過去問だけ16年分解きました。(他の大学の対策はほとんどしませんでした。)

高3の最初は3割くらいしか正解できませんでしたが、繰り返し解くうちに毎回8割ほどとれるようになりました。

この時期からはどの大学のどの学部の問題も簡単に見えて、周りからも頭がいいと尊敬され、勉強や通学さえも楽しかったです。



2014.2月

受験はなんの不安もありませんでした。
狂ったように過去問を解きまくっていたので、いつも通りにやれば受かると確信していました。
上智は4学部受けて、全て合格しました。


この時点で受験は終えてもよかったのですが、学校側も合格実績は良ければ良いほど助かるし、担任の先生も学校から褒められると聞いたので、一応早稲田大学国際教養学部も受けました。
気が緩んでしまい過去問も解く気になれず、受験会場の待ち時間で軽く問題形式をチェックしただけですが、すでに知らない受験英単語はない境地にあった私はあっさり合格しました。


■執筆現在の私から高校生の私へメッセージ

2017年(大学4年生)


今では大学4年生(2017年現在)で、大学4年間を全力で楽しんできました。
サークルやボランティアを引っ張ったり(サークルは3つ、バイトも3つ、ボランティアは2つ経験しました)、初めての海外旅行に行ったり(バイトで貯めたお金で、イタリア、台湾、フランス、イギリスに行きました)、お酒を覚えたり、セクシャリティについて悩んで新宿二丁目に入り浸ったり、初めての彼女ができたり、1年間アメリカ留学したり、留学先で初めて本気の恋愛をしたり、遠距離恋愛中の彼氏と結婚計画を立てたり、留学後の1ヶ月半で内定4つ獲得したり……



目まぐるしい日々で、未だに母のことを思って泣くことも多いし、病み体質は少し残ったし、最初は体調を崩すことも多かったけど、それを紛らわすように忙しくいろんなところに行って、必死に自分の居場所をつくろうとするのは楽しかったです。

新しい世界をたくさん知ることができました。

留学中に初めての彼氏ができてからは、自分を愛してくれる人、そして自分も対等に愛する人が見つかって、精神は安定し、体調はかなりよくなりました。

毎日笑って、美味しいものを食べて飲んで(服薬中は味覚障害だったので、今は本当にご飯が美味しいです…♡)「あなたはいつも幸せそうだね」とみんなから言われます。
辛い時期を知っているからこそ、美味しいご飯や小さな優しさ、健康な身体、道端の綺麗な花、全てがうれしいです。


長い時間がかかりましたが、私が幸せになったのを見て、母も安心して幸せでいてくれていると思います。
母の肉体はもうお空に消えてしまいましたが、母が私にくれた愛はずっと私の中に残って、私を守ってくれました。


私は今とても幸せです。リストカットの跡はくっきりと残っているし、心の傷はふとした瞬間に開いたりするけど、それでも、死ぬしかないと思っていた私でも今はとても幸せです。


同じような苦しい思いをしている方がいたら、それを知っていてほしいです。
頑張ろうとしないで、自分を責めないで。

誰も分かってくれない時は、没頭できることを探してみてください。
ゲームでも漫画でもなんでもいいです。

無意識でもあなたを傷つけてしまう人、わかってくれない人には、心を閉ざして距離を置いた方がいいこともあります。
私は心を閉ざして誰にも期待しないようになってから、格段に楽になりました。

心を完全に閉ざしていた伯父とも今は仲良しです。
距離をとったおかげで、辛かった時は心を閉ざしていた友達とも今は親友です。
父とも、長い別居の末、今では一緒にご飯も食べられますし、ありがとうも言えます。

辛い時は人間関係を処理する余裕なんてないんですから。


ネットの馬鹿な悪口やサイトを見ないでください。
(特ににちゃんねるとかガルチャンは危険です!無責任なこと言う教養のない暇人がたくさんいます。健康な時はいいですが、病んでる時は厳禁ですよ。)
私はリスカについてや鬱について調べまくって、必要のない暴言に殺されそうになりました。



自分を責めないで。あなたは悪くありません。
あなたを責める声は、ストレスに耐え続けて疲れ切った脳が作り出している幻想です。

未来で誰かがあなたのことを必要としています。

■まとめ


・自分を責めないで。世界において、法を犯している訳でもないのに「子どもが悪い」状況なんてほとんどありません。

うつ状態の時、脳は逃げ道ばかりを探そうとします。その声をかき消せる何かを探してみてください。
 ノートに気持ちを書いたり、絵を書いたり、本を読んだり、勉強したり、走ったり、なんでもいいです。
 その努力があなたを助けてくれるかもしれません。

・時には誰からの心を閉ざして、誰にも期待しない方が楽になります。
 人なんてみんな自分中心ですから、周りは気にしないでください。傷つけてることにすら彼らは気付かないんです。

・生きているかぎり、あなたも幸せになれます。


私が病んでいるとき、似ている境遇の人に会いたかったのに見つからなかったのがとても辛かったので、私の経験を紹介させていただきました。

「ひとりじゃない」と思っていただけたら、幸いです。
是非、コメント欄であなたの声を聞かせてください。